日本人、初めて英語と出会う。

日本人が初めて英語と出会ったのは、いつだと思いますか?
ペリーが黒船で来た時? ジョン万次郎が帰国した時?
実は、それよりもっともっと前の1600年です。
関ヶ原の戦いの年ですね。

つまり、徳川家康が江戸幕府を開く3年前。
そんな、時代の大きな変化の真っ只中、九州の大分に1隻のオランダ船が漂着しました。そのオランダ船に航海士として雇われていた「ウィリアム・アダムズ」というイギリス人。その人が日本に来た最初のイギリス人だと言われています。

当時、オランダは世界の「覇権国家」。海を制したモノ勝ちの大航海時代。オランダは、圧倒的な造船力をもち、世界中で交易を行っていました。首都のアムステルダムは、今でいうニューヨーク。世界商業と金融の中心になっていました。そんなオランダの船が、イギリス人を乗組員として雇うことは珍しくなかったそうです。
その後、この「ウィリアム・アダムズ」は、帰国を切望しながらも20年に渡り徳川家康の外交顧問、航海士として江戸幕府の水先案内人として仕えます。
名前も「三浦按針」と名乗り、武士として生きました。
帰国も叶うことなく、通訳外交、イギリスとの国交樹立、造船、航海術、数学の伝授など日本に多くの貢献、功績を残し長崎県平戸にて55才の生涯の幕を閉じました。そして、今年2020年は、三浦按針没後ちょうど400年となります。

しかしながら、こうした按針の存在がありながらも、当時の日本は英語を学ぶことはありませんでした。
世界の覇者オランダの言語「蘭学」は学ぶことはあっても、英語には無関心でした。
では、日本人が英語を学び始めたのはいつなのでしょうか?
日本人、初めて英語を学ぶ。
「ウィリアム・アダムズ」の漂着から約200年_
今度は、長崎湾に突然、不審船が1隻現れました。
その船は、当時の貿易友好国であるオランダの国旗を掲げて湾内に入ってきました。

奉行所は、この船に役人と通訳、そして在留のオランダ商館員(オランダ人)を送りました。
するとその船は、そのオランダ人2人を人質にしたのです!
やがて、その船は、オランダの国旗を降ろしイギリス国旗を掲げました。
正に、海賊行為!!
これが日本人がはじめて英語に出合った時と言います。

「たとえ、外国人たりとも、在留のものなれば日本人同然!死力を尽くして取り戻せ!」と奉行は大激怒。
それに対し、フェートン号は、「水や食料、薪を供給しなければ、人質を殺害する!」と言ってきました。
奉行はやむなく要求に応じ人質は解放。
フェートン号は、3日間世間を騒がした後、姿を消しました。
この当時の奉行の責任者は、自身の危機管理を自責し、切腹したそうです。
また、この時、船上で通訳にあたった幕府の通詞(通訳)が、フェートン号のイギリス人より、驚くべく事実を知らされました。

それは、覇権国家だったオランダが、フランス、イギリスに占領されているというヨーロッパの現状でした。
これを機に、幕府は通詞(通訳)たちに英語の修得を命じました。
これが、日本人の英語学習の始まりです。
しかし大問題! 英語を教える講師がいない!!
オランダ商館に相談すると、アイルランドでの勤務経験がある「プロムホム」というオランダ人を紹介されました。
ということで、日本初の英語講師は、オランダ人でした。
オランダ式の発音英語になったのは言うまでもありません。。。
例えば、
“alone”は、「アロネ」、
“clear”は、「クレール」,
“sir”は、「シル」 など。
唯一の講師であるプロムホムさんと、悪戦苦闘な日々が続きました。。。
そんな中、幕府の命令によって「英和辞典」が作られました。

その名は、「諳厄利亜語林大成」
(アンゲリア ゴリンタイセイ)。
「アンゲリア」というのは、イギリスのことですが、
当てた漢字「諳厄利亜」が、野蛮なイメージですね。
当時、英語は「野蛮で悪い国の言葉」「俗語」と考えられてました。
日本人、初めて「ネイティブ」の英語授業を受ける。
フェートン号から40年。当時は、アメリカでもハワイを基地に捕鯨が盛んで、その船がよく日本近海に出没していました。
その船に乗って一人の英語(米語)「ネイティブスピーカー」が日本に上陸しました。

その人の名は「ラナルド・マクドナルド」。
まだ、23才の若者でした。
この青年は、父がスコットランド人で母がインディアンでした。
彼は、インディアンの祖先は日本だ!と強く信じ、『母の国「日本」に行ってみたい!』と捕鯨船に乗り込んで密入国しました。
※余談ですが、最新の研究では、DNA的にインディアンと日本人は濃い血縁関係があることが判明しています。
北海道に上陸した彼は、長崎に送られ取り調べを受けました。
鎖国時代の当時、日本では、自国人の出国と外国人の入国は大罪。
「ラナルド・マクドナルド」は、座敷牢に監禁されました。
それを知った熱心な通詞たち(14人)は、本場の英語に触れてみたい!と「ラナルド・マクドナルド」の座敷牢を訪れました。
そして牢格子の前に並んで授業を受けました。
そこで、生徒たちは、牢格子の向こう側のラナルドに紙を渡したり、彼の口を順番に見つめながら発音練習をしたりするのです。
これが、日本での最初の「ネイティブ」による英語授業です。
こうして「ラナルド・マクドナルド講師」による授業は、約半年間続きました。
その後、彼はアメリカの軍艦に引き渡されました。
「日本に留まって英語を教えたかった」という言葉を残して。。。
写真左は、当時の通詞のエース 森山栄之助。

As a tribute to Mr.Ranald MacDonald,(ラナルド・マクドナルド氏に敬意を表し)、Weの講師たちは、彼の意志を受け継ぎ、そして感謝して、鋭意レッスンに尽力して行かねばなりません!
日本人、初めて英会話本を作る。
ラナルド・マクドナルドが、日本を去ってから2年。
今度は、反対にアメリカに漂流していた日本人青年が10年振りに日本に帰国しました。

土佐(高知県)の漁師の息子「万次郎」。
彼は、漁に出たあと漂流し、アメリカの捕鯨船に救助されました。その後、船長に気に入られアメリカにて高校まで行かしてもらい、日本語もろくに読めなかった少年が英語で教育を受け、様々な知識を身につけて祖国日本に帰ってきました。
帰国後、出国の罪に問われて長崎で取り調べを受けましたが、
最終的に万次郎は、侍の身分を得ることになりました。
そして、万次郎帰国後、2年もしないうちに黒船に乗ってペリーが現れます。
万次郎は、森山栄之助と共に黒船でペリーとの交渉に大活躍しました。
その後、万次郎は、本場仕込みの英対話力をもとに「英米対話捷径」という日本で最初の英会話練習本を作成します。
「捷径」(しょうけい)とは、「近道」という意味。今で言うコツ、あるいは「○日で完成!」などという広告文句的な意味も込めたのでしょうか?!ちなみに、この教本の英語は、大変おもしろいです。耳で聞いた英語をそのまま発音した標記になっています。例えば、、、

Q. 以下の意味はわかりますか?
【1】 “モヲネン” | 【2】 “イヴネン” | 【3】 “ナイ” |
【4】 “ウィンダ” | 【5】 “コヲル” | 【6】 “ウヱシツ” |
【7】 “ペエン” | 【8】 “チョチ” |
A. 答えは、
【1】 "morning" | 【2】 "evening" | 【3】 "night" |
【4】 "winter" | 【5】 "cold" | 【6】 "west" |
【7】 "pen" | 【8】 "church" |
巧い!ですね。
その後、万次郎は明治政府より、開成学校(現在の東大)の英語教授に任命されました。
数奇な人生ですね!

日本人、初めてアメリカを正式訪問。
ペリー来航の3年後の1856年にハリスが初代アメリカ総領事になりました。
この時から、日米修好通商条約が結ばれるなど、両国の国交が盛んになりました。
その条約の同意書を交わすために日本最初の使節団が形成され、咸臨丸という軍艦で渡米しました。

その軍艦には、勝海舟や福沢諭吉、そして、通訳としてジョン万次郎、更には、床屋さんから槍持ちまで総勢96人もの人々が乗り込みました。
この渡米の際、福沢諭吉はウェブスターの英英辞典を持ち帰りました。そのことは後に「福翁自伝」で「日本にウェブストル、字引の輸入の第一番」と自慢げに書かれています。
福澤諭吉は、蘭学者として有名でしたが、この渡米から帰国したあと、自身が運営していた蘭学塾を英学(英語)の塾に切り替えました。この塾が後の慶応義塾大学になります。
そしてそこでは、生徒に英語を教えるとともに、幕府の翻訳方としても活躍しました。
また、今、私たちが普通に使っている日本語には、この時の福沢諭吉により翻訳された言葉がたくさんあります。

例えば、「演説」「自由」などなど。
当時、英語にあって日本語にはなかった概念を、新しい日本語として数多く産み出しました。
その他、”Right”は今「権利」という日本語になっていますが、福沢諭吉は、これを「権理」とすべきと唱えていました。
日本人たるものが「利」を求めるなんぞ卑しい!と自論を主張しました。

議論の末、英語の文脈に忠実に従い現在の「権利」となったのですが、「理(ことわり)があり」「理にかなってこそ」の『権理』。
個人的には、この『権理』の方が、理にかなっているように思いますが、みなさんはいかがですか?
こうして、この偉大な学者、福沢諭吉翁が「英学(英語)」を推進することで、一気に日本の英語教育が進展するのです。
温故知新。Weは、こうして江戸、明治に生きた先人の軌跡を辿り、今の令和の時代の英語教育のあり方を深く研究していきたい所存です。
日本の歴史や文化を英語で発信するなら、Japanese Culture Magazine "Hiragana Times" もオススメです。
